林翁寺について
曹洞宗瑞祥山林翁寺は、戦国時代に下妻城主として下妻33郷で権勢をふるっていた多賀谷家植(祥潜)が開基となり、当時の多賀谷家菩提寺潜龍山多宝院の住持(初代小伝宗誾か)を招き、隠居寺として下妻城廻村の小高い丘の上に開創された。開創された時期は度重なる火災により寺伝が失われたため不明だが、多賀谷家植(祥潜)が1489年に多宝院を開創してから1527年に家督を多賀谷光経に譲るまでの間と推測される。

それを裏付けるように、多宝院も林翁寺も開基が「龍山祥潜大居士(多賀谷家植=祥潜)」となっており、その戒名(祥潜)にちなんだ山号を持つ→多宝院「潜龍山」林翁寺「瑞祥山」。多宝院には末寺が二十数ヵ寺あるが、林翁寺だけは歴代住職の隠居寺という事で特殊な扱いであったらしい。隠居寺の証拠は寺号が「林翁寺=翁が静かにたたずむ寺」であり竹やぶ(常緑=不死)中に立地していた事、本尊が「延命地蔵菩薩」などである。

その後関ヶ原の戦いの結果、佐竹氏の親類で与力であった多賀谷宣家(本家養子→下妻城主)は、秋田に転封を命じられた佐竹氏に従い檜山へと移り、結城家の家老であった多賀谷三経(廃嫡実子→太田城主)は加増転封する結城(松平)秀康(家康の長男)に従い越前へと移り、下妻は家康の11男徳川頼房が6万石で入り旗本領となる。
 
1615年(元和元年)、多賀谷氏が去り、おそらく荒れていた林翁寺を、多宝院9世の伝室禅綬大和尚が中興開山として(現在寺の記録では開山となっているが、開基である祥潜大居士の生年と100年近くズレてしまうため中興=寺を復興させた住職=であろう。この時点でおそらく開山住職が誰だったか判らなかったのかも。)復興。新しく下妻藩主となった井上氏の与力(家老職)が檀家(江戸時代の檀那制により)となった。

1893年(明治26年)、落雷による火災で本堂・庫裏を全焼。
1894年(明治27年)、第16代祖室禅良大和尚により、近所の古民家等の部材を再利用して再建。
1990年(平成2年)、建材の再利用によって建築された旧本堂が100年近い間に老朽化著しく、第19代即応寛順大和尚(増田寛順)が本堂を新築し、本寺多宝院から中興の称号を与えられる。
2013年9月17日、第19代中興即応寛順大和尚寂。
2014年1月27日、大機和順和尚(増田和順)に曹洞宗から住職任命書が発布され第20代住職となる。